冬の間ずっと隆と一緒に乗っていたおかげで
いちおう中央の一番背の高いメインセイルと
先頭についているジブセイル、最後部の操縦
席の近くにあるミズンセイルを上げてヨット
を動かすっていうことぐらいは、麻美子でも
理解できるようにはなっていた。
でも、基本的にヨットのことなんて全然わか
らなかった。
「こんな私が、ヨットに乗り続けていても仕
方ないじゃないの」
麻美子は、そう考えていたのだった。
冬の間ずっと隆と一緒に乗っていたおかげで
いちおう中央の一番背の高いメインセイルと
先頭についているジブセイル、最後部の操縦
席の近くにあるミズンセイルを上げてヨット
を動かすっていうことぐらいは、麻美子でも
理解できるようにはなっていた。
でも、基本的にヨットのことなんて全然わか
らなかった。
「こんな私が、ヨットに乗り続けていても仕
方ないじゃないの」
麻美子は、そう考えていたのだった。
日曜日の朝、鈴木香代は横浜マリーナにやっ
て来ていた。
中学、高校とも女子バスケット部だったし、
運動は苦手というわけではないのだが、人見
知りで賑やかな場所で過ごすことが苦手だっ
たため、あまり外に出かけることもなく過ご
してきた彼女だった。
「私って、人と話すのがどうしても苦手だな
ヨットでも始めたら得意になれるかな」
そう思って、横浜市の広報誌に載っていたヨ
ット教室に応募してみたのだった。
鈴木香代は、短大を卒業後、会社に就職して
OLをしていた。会社では仕事が終わるとす
ぐに家へ直行して、お休みの日もずっと家の
中で過ごしていることが多かった。
そんな性格の香代だったが、なんとなく自分
を変えてみたい、何か新しい挑戦をしてみた
いと考えていた。そんな香代が広報誌で目に
したのが、横浜マリーナで開催されるクルー
ジングヨット教室の生徒募集の告知だった。
ヨットなんて一度も乗ったことがなかったが
教室に応募してみたら当選したのだった。
「大丈夫かな、私」
横浜マリーナの正面には、大勢の人たちが集
まっていた。自分と同じクルージングヨット
教室に参加するために来ていた人たちのよう
だった。こんなに大勢の人たちの姿を見て、
既に、香代の心臓はドキドキしていた。
入り口に立っていた男性スタッフに、クルー
ジングヨット教室の案内ハガキを見せた。
「クルージングヨット教室は、クラブハウス
2階で開催されます」
男性スタッフは、香代に伝えた。
香代は、男性スタッフに案内されて、クラブ
ハウスのハウスの表に付いている階段を上が
って、2階の部屋に入った。
クラブハウスの中には、既にこれからクルー
ジングヨット教室を受講しようという人たち
でいっぱいだった。
「すごい人の数」
自分と同じ20代ぐらいの人もいたが、30
、40、50代ぐらいの人もいて、年代は様
々だった。女子と男子では、7:3ぐらいで
女性の参加者の方が多かった。
後ろの席から他の参加者たちの姿を観察して
いると、授業が始まるのを待ちながら、周り
にいる同世代の生徒たち同士で仲良くおしゃ
べりをしていた。
お友達同士でヨット教室に応募して来たのか
と思うぐらい仲良くおしゃべりしていたが、
話を聞いていると、みな特にお友達同士って
わけではなく、たまたまヨット教室で一緒に
なった人たちが多いようだった。
「私も、あんな風に話しかけられたらな」
香代は、周りの皆を眺めていた。
周りの人たちが隣の席の人たちとおしゃべり
をしている姿を眺めながらも、香代は眺めて
いるだけで話しかけられずにいた。
「それでは、座学を始めます」
50代ぐらいの先生が教室の先頭で挨拶をし
て、ヨット教室の座学が始まった。
「座学で使う教科書を配りますね」
まず最初に、コピー機でプリントされた教本
が生徒たちに配られた。香代のところにも教
本が配られて、香代は教本を読みながら、教
壇の先生の話に耳を傾けた。
いつも学校の授業の成績もわりと優等生だっ
た香代は、初めて聞くヨットの知識でも教本
の内容を読みながら、座学の先生の話を聞い
ていると殆どの内容を理解できた。
「それでは、お昼休憩にしましょう。午後は
1時から始めます」
午前の座学の授業が終わって、教壇の先生も
お昼を食べに教室を出ていった。
生徒たちも、それぞれ教室を出て、近くのス
ーパーに行って、お昼の弁当などを買ってく
ると、マリーナの敷地内で食べていた。
香代は、あまりお腹も空いていなかったし、
バッグの中に持ってきたグミの袋を開けて、
それをつまみながら、午前中に教えてもらっ
た座学の内容を1人机で復習していた。
「午後の授業を始めましょうか」
教壇に先生が戻ってくると、午後の座学が始
まった。
午後は、1時間ぐらい教壇の先生の話す座学
を聞くと、その後は、生徒たちそれぞれに短
い長さのロープを3本ずつ配られて、そのロ
ープを使って、ロープ結びの実習になった。
座学の講習は、教本を片手に先生の話を聞い
ていて、だいたい内容を理解できていた香代
だったが、いざロープワークの実習になると
なかなかうまくロープを結べずにいた。
「うまく結べる?ヨットのロープの結び方っ
て本当に難しいよね」
香代がロープの結び方で苦労していると、そ
れを後ろで眺めていた長いストレートの黒髪
を胸の辺りまで垂らしたお姉さんが香代に話
しかけてきてくれた。
「そうそう、そこは上から通すのよ」
「そっちは、こうやって下から通すと、うま
く結べるわよ」
ストレートの長い黒髪のお姉さんは、香代に
優しく結び方を教えてくれた。
香代が気づくと、午前、午後の座学の間は、
教壇の先生とヨット教室の生徒たちしかいな
かった教室に、他にもたくさんのおじさん、
おばさんたちが集まって来ていた。
香代が、髪の長いお姉さんにロープワークを
教わったように、教室の周りに集まって来た
人たちも、生徒達に結び方を教えていた。
初めて教わるヨットのロープワークに、生徒
たちは皆、ロープ結びに苦労していた。
教室の先頭にいた先生だけでは、生徒たち皆
のロープワークを見てあげられず、集まって
来たおじさん、おばさんたちも生徒たちのや
っているロープワークをそれぞれ手伝ってい
たのだった。
「上手に結べるようになれたじゃないの」
香代は、ストレートの長い黒髪のお姉さんが
すっかり気に入ってしまって、彼女に全て教
わってしまっていた。
教室に集まって来たおじさん、おばさんたち
は、ここのマリーナにヨットを停泊している
オーナーさんたちで、ロープワークの実習が
終わったら、生徒たちは、彼らのヨットに振
り分けられる予定になっていた。
「隆!私が生徒さんたちを迎えに行って、後
で、そっちに連れて行くね」
「わかった!頼む」
ストレートの長い髪のお姉さんは、教室の窓
から見えるヨットのデッキで作業している男
性に声をかけていた。
「俺らも、来週からあそこに停まっているど
れかのヨットに乗れるんだよな」
前の席の男性が、ロープワークの練習しなが
ら、横にいる仲良くなった彼と話していた。
香代は、彼の話を聞きながら、このお姉さん
もヨットのオーナーさんで、生徒のことを迎
えに来ているんだろうなと思った。
「私は、このお姉さんのヨットに振り分けら
れると良いのにな」
香代は、お姉さんにロープの結び方を教わり
ながら考えていた。
今朝の横浜マリーナは、随分と人が多く騒が
しかった。
今日から今年のクルージングヨット教室が始
まるので、マリーナにはヨット教室に参加す
る生徒さんたちがいっぱい集まって来ていて
いつもは静かなマリーナの敷地内が若い人た
ちのお喋りする声で騒々しかった。
生徒たちの間をかき分けて、麻美子は隆と一
緒に自分たちのヨットへ向かった。
「夕方から生徒たちの引き渡しだから、午前
中少しだけ海に出て帆走してこよう」
あんなに大勢の生徒さんたちがヨットに乗り
に来てくれるのだったら、来週からは別に私
が隆と一緒にヨットへ来なくても、隆もさみ
しくないわねと麻美子は思っていた。
「来週からは、私がヨットに来なくても、い
っぱい人いるし大丈夫だよね」
麻美子は、隆にそう伝えようと思いつつも、
ずっと言い出せずにいた。
午前中、ヨットで海に出航して、いつもの貯
木場には立ち寄らずに、昼過ぎにはマリーナ
へ戻って来て、お昼を食べていた。
お昼、ヨットで海に出航して昼過ぎにマリー
ナへ戻って来て、キャビンでお昼を作って、
デッキで昼食を食べているときも、麻美子は
隆にそのことを伝える機会を逃していた。
「そろそろ各艇に生徒さんたちを振り分けま
すので、オーナーさんはクラブハウスの方へ
お集まり下さい」
マリーナの職員さんが、各艇のオーナーさん
に伝えていた。
「生徒達を迎えに行くの私が行こうか」
麻美子は、忙しそうにしている隆に言った。
隆は、午前中、セーリングをして来たヨット
の後片付けで忙しそうだった。お昼ごはんの
後片付けを終えた麻美子は、隆に提案した。
「よろしく頼むよ」
ヨットのセイルを折りたたんでいた隆は、黙
って麻美子に頷いた。
麻美子がクラブハウスに行くと、他にも多く
のヨットオーナーさんたちが生徒たちのこと
を迎えに来ていたのだった。
その中に、麻美子が最近知り合ったウララの
松浦オーナーの姿もあった。
「松浦さんのところも、生徒さん取られるの
ですか?」
麻美子は、この冬の間ずっとヨットへ乗りに
来ていて、すっかり顔見知りになってしまっ
たウララの松浦オーナーに話しかけた。
「うちのヨットは、若い男性クルーがいない
と走らせられないヨットだから」
ウララは、隆の乗っているラッコのヨットと
は、まるっきり違うタイプのヨットで、ヨッ
トレースで速く走ることだけに特化して造ら
れているヨットだった。
麻美子は、以前、ウララの船内を覗かせても
らった時、速く走れるようにと船体を軽くす
るため、ほぼ何もない空っぽの船内に驚いた
ものだった。
パイプベッドが両サイドに4個備え付けられ
ており、カセットガスコンロ1個とバケツが
置いてあるだけの船内を見せてもらったこと
があった。
「え、これがトイレなんですか」
ただの青いバケツがウララのトイレで、そこ
へ用を足して海に流すのだそうだ。
「そのバケツはあまり触れない方が良いよ」
「そうなんですか?」
「うちの皆のトイレだから」
松浦オーナーは、麻美子に苦笑していた。
トイレの用だって、扉も何もない、ちょっと
した仕切りの影へバケツを持って行って、そ
こで済ませてくるのだと説明してくれた。
「私、ウララには乗れないわ」
「まあ、そうだろうね」
松浦オーナーは苦笑していた。
麻美子は、その時のことを思い出していた。
「それでは、生徒さんたちを振り分けます」
マリーナ職員が皆に伝えた。
「自分の船の名前が呼ばれたら、オーナーさ
んは教室の前方に出てきて下さい」
教壇の先生に代わってマリーナ職員が、教室
の後ろの方に集まっていたヨットのオーナー
さんたちに声をかけた。
「ウララさーん!」
「はーい」
先生に呼ばれて、オーナーの松浦さんは、教
室の前方に移動した。
マリーナ職員は、ウララに振り分けられる生
徒さんたちの名前を呼び、呼ばれた生徒さん
たちも教室の前方に移動して、これからお世
話になるヨットのオーナーさんと対面した。
「皆さん、若い男性ばかり」
レース艇のウララに振り分けられる生徒さん
たちは流石に皆、若くて力のありそうな男性
たちばかりであった。
「それはそうよね、あのヨットだし」
麻美子は、ウララの船内に置いてあったバケ
ツのトイレのことを思い出していた。
「うちのヨットには、どんな生徒さんたちが
振り分けられるのかな」
麻美子は、自分が呼ばれるのを待ちながら、
考えていた。さっき、ロープの結び方がよく
わからずに私が教えてあげた女の子って素直
で可愛かったし、あの子がうちのヨットに振
り分けられるといいな。
「ラッコさーん」
教壇のマリーナ職員に呼ばれた。
「はーい」
麻美子は、慌てて教室前方へ移動した。
「今日のオファーは27件だから5件ずつ」
ゆみは、その日届いた海外バイヤーからのオ
ファーを輸出部門の営業担当者たちに振り分
けていた。
営業担当者たちは、その日振り分けられたオ
ファーに対して、メールで返信する。
5件ぐらいのメール返信なら、すぐに終わっ
てしまうと思うかもしれないが、処理しなけ
レバならない海外バイヤーは、当日届いた分
だけではない。前日に出した分やその以前に
返信した分からも届いていたりする。
営業担当者たちは、それらの海外バイヤーへ
の返信、商談も進めつつも、既に受注済みの
海外バイヤーの自動車を仕入れたり、船積み
の手配もしなければならない。
海外バイヤーたちは、会社の英語向けホーム
ページから車のオファーを出してくるため、
横浜の貿易会社が売上げを順調にあげていく
ためには、ゆみの作っている、運営している
ホームページが重要になってくる。
「少しハイエースの掲載増やそうかな」
ゆみは、ホームページの構成を考えていた。
ゆみには、輸出部門のホームページを作るこ
ととは別に、もう1つ育成部門の受講者たち
のホームページを作るという仕事もあった。
育成部門のオンライン通信教育で受講してい
る受講者さん達にだって、これから中古車輸
出業者として独り立ちしていかなければなら
ないから、海外バイヤー向けの英語ホームペ
ージは必要になってくる。
そんな彼らの英語ホームページも、ある程度
の英語は帰国子女でわかるゆみが担当し、制
作してあげていた。
「永田さん、柏木さん、中村さん、鈴木さん
は、前へ出てきてください」
麻美子が教室の前方に移動すると、マリーナ
職員は、今度はラッコに振り分けられる予定
の生徒さんたちの名前を順番に呼んでいた。
先生に名前を呼ばれる度に、呼ばれた生徒さ
んが返事をして教室前方に出てくる。
最後に、鈴木さんと呼ばれた生徒が教室の一
番後ろから返事して、教室の前方に歩いて来
た。麻美子がさっきロープワークを教えてあ
げていたあの可愛い女の子だった。
「彼女、うちのヨットに振り分けられたんだ
麻美子は、彼女の名前が呼ばれたとき、なん
かちょっと嬉しかった。
「永田瑠璃子さん、柏木雪さん、中村陽子さ
ん、鈴木香代さん」
麻美子は、クラブハウスで先生から受け取っ
た資料を確認しながら、ラッコのヨットに振
り分けられた生徒さんたちの顔を確認した。
みな女性ばかりだった。
「これじゃ、隆が困らないかな」
と麻美子は思った。
隆は、毎週自分と一緒にヨットへ乗ってくれ
るクルーを求めて、クルージングヨット教室
の生徒さんたちを自分のヨットに受け入れる
ことにしたはずだった。
一緒に乗ってくれるということは、セイルを
上げたり下げたりする際、一緒にヨットを操
船してくれる人を求めているはずだ。
セイルを上げたり下げたりするのに、女の子
ばかりだったら困るんじゃないかな。
「私が、隆に変わって生徒さんのお迎えに来
てしまったからかな」